自分で考える子供を育てる

 どの項目でもふれていますが、最近は優秀な?!子供が増えました。
虫に詳しい子、動物に詳しい子、ピアノが上手な子、25メーターも泳げる子、恐竜に詳しい子、ちょっとした会話なら英語でもOKという子・・・それはやはりすごくステキなことですね。
ところが、虫に詳しい子が実際には虫が恐くて触れなかったり、動物に詳しい子が動物園は臭いから行きたくない!と言っていたり、ピアノが上手な子がどんな音楽にも感動しなかったり、泳げる子が海や川がきらいだったり・・・ちょっとアレ?と思うこともよくあります。

 そうです。最近は、
すべての身の回りのことを体や肌で感じ、五感で経験し学ぶ、というよりも、視覚や聴覚だけで「興味」を持ち、視覚や聴覚だけに頼って深く掘り下げていき、あたかも「知っている」気になってしまっている、という子供がほとんどになりました。まさに「バーチャル世代」とでもいうのでしょうね。
でも、実際には、それらは「知っている」というに過ぎず、本当はそれでは「理解し、納得し、会得している」ことではなく、「見たことがある・聞いたことがある」という範疇を出ていない、とも言えるのです。
 いかがでしょう?ここ10年に起こった様々な事件を見ていると、オウム関連の事件も、かつての飛行機でレインボーブリッジをくぐりたかった犯人も、有名大学を卒業した、社会的には優秀と思われるような人間が関与していましたね。これは考えさせられる事実ではないでしょうか?
 
 ここで話しを理解しやすくするために、もう少し大きくなった子供達のことをお話してみましょう。たとえば中学生。
 ここに都内の有名な名門私立中学に通うK君がいます。
彼は中学2年生。2年前、世の中で取りざたされる熾烈な中学受験を経験し、志望校に入学しました。
小学校4年生からの彼は3年間、様々なものを諦めて塾通いをし、クラスの同級生からも「あいつは受験組」と何となく排除され、ひたすら受験勉強をしてきました。毎週末にある塾でのテスト、その結果に一喜一憂する両親・・・K君は反発を感じながらも、「いい中学に行くことはすばらしいあなたの未来が開けること」という両親の言葉を素直に信じ、がんばって・・・ 念願叶って入学。両親は大喜び。特にお母さんの喜びようはかなりのもので、まさに我が事のように驚喜し、K君は今までにも増して、お母さんの自慢の息子になりました。
 そして・・・K君が入学したその学校は、自由の大海でした。パラダイスです。K君は何ら束縛されることなく、自由に生きられるようになりました。今後6年間、大学受験までは彼の自由な環境です。
しかし、自由であることは、K君が思っていたよりも、なかなか大変なことでした。今までは両親にお膳立てされた学習をこなし、両親の敷いてくれた線路の上を反発を感じながらも走ってきていたK君。こうしなさい、ああしなさい、と言われることに抵抗はあっても、思えばそれは楽なことでした。そして、その通りにしたから、彼は少なくとも今の環境を手に入れたのでした。
 しかし、その学校は違っていました。自由であるが故に、すべて自分で考えて行動しなければなりません。自分で判断しなければならないのです。たとえ、自分の選択した道が間違っていたとしても、誰を責めるわけにはいきません。今までは「お母さんが悪いんだ!お母さんがああ言ったから僕はああしたのに、こんなになっちゃったじゃないか!!」とお母さんに怒鳴ればよかったし、お母さんはK君が怒鳴ると必ず悲しい顔をして「ごめんごめん、ママが間違ってた。あなたはあんなにがんばっていたものねえ。悪いのはママよ。」と言ってくれたのに・・・その学校では、その手は通用しませんでした。
 どんなクラブが自分に向いているのかわからず、自分が何をしたいのかもよく理解出来ず、なとなくまわりを見ているうちに時間だけが過ぎて2年生になってしまいました。次第にK君は自由を持て余し、自由の良さを理解する前に、自由に翻弄され、その自由を糧に成長する以前に自由につぶされていきました。
 それでも不登校になりつつあるK君は、悲しい顔をしておろおろするお母さんに、泣きながら叫ぶのです。
「ママが悪いんだ!僕はあんな学校には行きたいなんて一言も言わなかった!パパやママがいい学校だっていうから、一生懸命にがんばって入ってやったのに・・・パパやママが悪いんだ!学校なんか嫌いだ!!パパのせいだ、ママのせいだ!!」

 同じ中学校の2年生に、M君がいました。
M君もK君と同様に3年間塾通いをして、恋いこがれたその中学に入りました。
 M君がその学校を知ったのは小学5年生の春。お母さんと一緒にその学校の文化祭を見に来た時のことです。厳しい私立の小学校の生徒だったM君が目にしたその学校は別世界でした。中学や高校のお兄さん達は、のびのびと歌を歌ったり、チラシを配っていたり、ステージの上でおもしろい事をしていました。お母さんは驚いた様子でしたが、M君はその世界の持っている不思議な魅力にとりつかれてしまいました。
 M君が、それまでは何となく通っていた塾での勉強に、急に熱が入りだしたのはその日からでした。
(僕は、あの学校に行きたい!あの学校で、僕は勉強したい!あのお兄さん達みたいにやってみたい!)
M君の突然の宣言に驚いた両親でしたが、一生懸命にM君のためにその学校のことを調べてくれて、今度は違う行事に、またM君を連れていってくれました。それでもM君の決心は変わらず、両親もいろいろと考えた上で賛成をしてくれました。そして目出たく合格。
 M君は今、クラブに、自治活動に毎日忙しく送っています。運動会を控えて、高校生と一緒に準備のために9時を過ぎて帰宅したM君にお母さんが言います。
「お帰り、お疲れ様!どう、準備進んでいる?運動会、楽しみに行くからね。でもね、さすがに9時を過ぎるとお母さんも心配だから、ダラダラとしないで早く帰れる日は帰ってきてよ、ねっ!」「O.K!!ガッテン承知!!」


 どこでこの子達の毎日は変わってきてしまったのでしょう?
K君は悪い子なのでしょうか?M君は運が良かったのでしょうか?いいえ、それは違うでしょうねえ。
 子供はもともとの持って生まれた性格もありますが、
大きくは「育てられ方、育つ環境、育てる両親」によって大きく左右されます。
 愛情という名の下に、「守られ」、「自分で考え、判断する」機会を与えられないで育ったK君、K君が失敗をして転ぶ前に、杖を持たせ、さっと助けてきたK君の両親。K君は、自分でも気付かぬうちに指示待ちの子供になってしまっていたのです。いざ、自分で行動しないといけない状況に置かれてみたら・・・何も自分では考えられない、決断出来ない・・・そんな不甲斐ない自分にイライラしても、急にすべてが好転はしてくれません。そして結局、K君の悲しく切ない気持ちのはけ口は、甘えの裏返しとして、両親に向けられるのです。両親は戸惑い、K君をそういう状況に追い込んだ原因を、K君のまわりから見つけだそうとします。「乱暴な○○君達が悪い!」「先生の監督が十分ではない!」「うちのKのような繊細な子はまわりに理解されない!」しかし、こう言えばこう言うほど、K君は出口のない洞窟に入って行ってしまうことになることに、親は気付きません。
 
 より広い愛情によって「自分で考える習慣、判断し、行動する練習」を普段から当たり前のこととして身につけさせられたM君、M君の判断をたんに受け入れるというだけでなく、親として適切に助言したり、修正したりして対応してきたM君の両親。「見守ること」は決して楽なことではありません。あれこれと、世話をやき、何でも親がしてしまってやるほうが、どんなに簡単かしれません。しかし、敢えてM君の両親は大きな目でM君を見つけ、遠くで守り、接してきました。その結果、M君は自分で考え、判断する子供に育ちました。たとえM君が自分の判断の間違いによって失敗したとしても、きっとM君は両親にあたったりはしないでしょうし、その失敗からまた多くを学ぶことでしょう。そして両親は、失敗によって傷ついた我が子を本当の愛情でやさしく癒してくれるでしょう。

 子供は未熟です。当然、親はその未熟な子供を庇護してやらなければなりません。
しかし、子供はいつかは自分の足で歩いていかなければならない日はやって来るものです。その巣立ちの日のために、親は子供を守ると同時に、子供自身で「考え、判断し、行動する力」を育ててやらなければなりません。

 親はよく「思いやりのある子供に育って欲しい」と言いますね。
自分で考え、判断出来ない子供は、何でも人任せ。それは同時に、自分自身のことを真剣に考える力も育ちません。自分のことを真剣に考えられない子供は、所詮、他人のことを考えるだけの力などは育たない・・・かわりますうよね。
 
「考える力を養うこと」それは「「生きる力を育てること」です。
一度ゆっくりと考えてみましょう。

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